| 年 | ヴェレシチャーギン | 作品 | 社会 |
| 1842 | ロシア共和国チェレポーベツに地主の子として生まれる | ||
| 1850 | ペテルブルグ陸軍幼年学校に入る | ||
| 1853 | ペテルブルグ海軍士官学校に移る | ||
| 1860 | 同校を海軍少尉候補生として卒業。ペテルブルグ美術アカデミーに入る | ||
| 1863 | 美術アカデミーを脱退 (同時期クラムスコイ等学生14名も連袂脱退) | ||
| 1864 | カフカースへ旅行。フランスへ行きパリの美術アカデミーでジェロームに学ぶ。 | ||
| 1865 | 2度目のカフカース旅行。 | ||
| 1866 | パリから戻り「船曳」を制作するが未完に終る。 | ||
| 1867-68 | サマルカンドへ旅行、その後パリへ。 | ||
| 1869 | トルキスタンへ2度目の旅行。 | ||
| 1871 | ミュンヘンを訪れる。トルキスタン・シリーズの制作開始。 結婚。第一回移動展覧会。 |
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| 1872 | ロンドン万国博に初参加、『阿片吸引者』『成功の後』『失敗の後』 美術評論家スターソフがヴェレシチャーギンの論文を書く。 |
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| 1873 | トルキスタン・シリーズを完成。ロンドンで初の個展。 | <トルキスタン・シリーズ> | |
| 1874 | スターソフと個人的に相知る。 ペテルブルグで展覧会を開き大成功を収めるが(『戦争礼讃』)、後に3点の出品作(『忘れられた者』『包囲』『入城』)を火に投ずる。 インドへ向け出発。帝室アカデミーの教授の職を拒否する。 |
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| 1876 | インド・ヒマラヤ・シリーズ制作。 | 『アフラのタージマハール廟』 | |
| 1877 | パリを出発し、露土戦争参加のため野戦軍に入る。 | ||
| 1878 | パリに戻り、バルカン・シリーズ制作。 | <バルカン・シリーズ>(『攻撃の前』『攻撃の後』『敗北者―法要』) | |
| 1879 | ロンドン、パリでバルカン・シリーズの展覧会。 | ||
| 1880 | ペテルブルグで展覧会。 | ||
| 1881 | ウィーン、パリで展覧会。 | ||
| 1882 | ベルリン、ハンブルク、ドレスデン、テュッセルドルフ、ブリュッセル、ブダペストで展覧会。 | ||
| 1883 | モスクワ・ペテルブルグで展覧会。トレチャコフが購入。 シリア・パレスチナへ旅行。 |
<パレスチナ・シリーズ> | |
| 1884 | 福音書による主題のシリーズ制作。 | 『インド人の反英暴動鎮圧』 | |
| 1885 | ウィーンで展覧会。 | ||
| 1887 |
<死刑三部作>を制作。 「ロシアのありふれた人々」の肖像画シリーズの制作を始める。 「1812年」シリーズの制作を始める。 |
<死刑三部作>『ローマの磔刑』『ロシアの謀反人の処刑』 | |
| 1888 | パリ、ニューヨークで展覧会。 | ||
| 1889 | アメリカの大都市(シカゴ、ボストン他)を巡って移動展を開催。 離婚そして再婚。 |
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| 1891 | 2度目のアメリカ滞在。110枚の作品を売り尽くす。 | ||
| 1894 | 「アジアとヨーロッパの戦場」、小説「文学者」出版。 | ||
| 1895 | モスクワ・ペテルブルグ等で展覧会。 | ||
| 1896-98 | パリ、ベルリン、ドレスデン、ウィーン、プラハ、ブダペスト、コペンハーゲン、ライプツィヒ、ロンドンなどで展覧会。 | ||
| 1900 | オスロ、パリで展覧会。 | ||
| 1901 | フィリピンへ旅行。米西戦争を主題にしたシリーズ制作。 | ||
| 1902 | キューバ、アメリカへ旅行。ニューヨーク、シカゴで展覧会。 「戦場にて」の本出版。 |
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| 1903 | 日本へ旅行。京都、東京を経て、日光に滞在。 | ||
| 1904 | 4月13日旅順口にて、マカロフ提督の率いる旗艦ペトロパブロフスクと共に犠牲となる。 スターソフが美術アカデミーで追悼の展覧会を開く。 |